直心影流富山派 素遊会

直心影流富山派の系譜

左 富山可誠先生   中央 富山円先生    右 吉永義秀先生

富山圓(初代鹿島神傳直心影流富山派・大日本武徳会剣道範士)

富山圓は嘉永4年6月1851年嘉永4年6月に兵庫龍野に生まれ、幼少より父富山斎(いつ き)の二男 (播磨国龍野藩直心影流剣術指南役)について武術を学んだ。このあと江戸の2代目斎藤弥九郎、西尾源左衛門、桃井春蔵の諸大家に柔術を戸塚彦助に学んだと聞いている。

1877年(明治10年)から1881年(明治14年)まで、千葉県警察署、東京向島巡査屯所の剣術教師。

1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで、北海道空知集治監、函館警察署の剣術教師。

同11月26日、向ヶ丘弥生社における撃剣試合で藤田五郎(元新選組撃剣師範・斎藤一)と対戦。引き分けたという。

1886年(明治19年)警視庁に復帰。東京水上警察署、富岡門前警察署剣術教師。

1893年(明治26年)10月、小西新右衛門業茂の招きで伊丹「修武館」道場の教頭に就任。

1892年(明治25年)徳島県警察部に勤務。

1893年(明治26年)兵庫県伊丹町の篤志家小西新右衛門の招きに応じ、修武館の教頭として郷党子弟のために 多年にわたり武術を教授した。

明治26年 修武館の教頭になっておりますか。「修武館沿革」には「明治18年館名を揚武会から修武館と現在の名称に改め、自ら初代館長となり、初代師範に富山圓(のち範士)、薙刀については天道流第14代宗家美田村顕教(のち範士)を招いて斯道の普及顕 彰に貢献する基礎を確立し、当時澎湃(ほうはい)として起こった泰西模倣の風習に対して健全なる日本精神育成のためには武道を活用することが唯一絶対の道 なりとして、ますます武道の振輿に努めるところがあった」と、記してこざいます。

1895年(明治28年)4月に大日本武徳会から」武道家の称号。

1896年(明治29年)大日本武徳会から精錬証を授与される。第2回大会も、全国から1,440名の武道家が参加している。参観のために上洛した武徳会会員は12,000名と報道されている。この大会では、出演者の中から15名の剣客が選ばれて剣術精練証を受けているが、その中に修武館の教頭富山円圓がいる。              

1897年(明治30年)第3回大会は、1,065名の武術家と18,000名の会員が詰めかけた。           1898年(明治31年)第4回大会は武徳祭演武大会は中止された。三十三間堂で皇太子殿下 (後の大正天皇)の台覧試合が行われたからである。このときの演武には、剣術14組28名、弓術14名、薙刀2名、柔術5組10名が選ばれたが、ここにも富山圓と美田村頭教が名を連ねている)。当時、2人とも名だたる武道家であったことが、この一事をもってしても分かる。

1901年(明治34年1月4日)修武館初会式という案内状の中に先に述べた柔術の田辺又右衛門が修武館の師範をしていたころで、その田辺が撃剣の試合に、 撃剣の富山が柔術の乱取りにと、それぞれ両方の試合に出場しているのである。当時の武術家は、柔道家だから柔道だけ、剣道家だから剣道だけというのではなかったようである。

1905年(明治38年)大日本武徳会から教士号を授与される大日本武徳会仙台支部                                   

1907年(明治39年) 富山圓師範、大日本武徳会台湾支部へ赴任。

1908年(明治40年1月4日)修武館初會式に、柔術の田辺又右衛門先生が撃剣試合に、撃剣の富山可誠(息子)が柔術乱取りに富山圓先生が修武館にお帰りになった。稽古では三尺六寸か七寸、どっちにしても短い竹刀を ぐっと構えて歩み足で腰から攻めて来られた。(余談であるが練習中に皆さんはどうして右足からしか出て来んのだ。そんなのは剣道にないといわれた。) 

初代の師範は剣術の富山圓先生、岡本七太郎先生、成富赫治先生、薙刀の美田村顕教先生。

1908年(明治41年)台湾総督府に勤務。

同年一時帰国修武館の師範富山圓(直心影流)、美田村顕教(天道流)、真貝忠篤(窪田派田宮流)、岡本七太郎(神道無彊流)、成富赫治(流派不明)の流派の技を1本ずつ採用し5本の形を定めたものである。その後、2本が失伝し、現在は直心影流、天道流、窪田派田宮流の技を採用した3本のみ伝承されている。大正5年 (1916) 美田村顕教亡きあと、天道流15代宗家・美田村千代 (のち範士)を薙 刀師範に、美田村邦彦を剣道師範に招聘する。

1911年(明治44年)大日本帝国剣道形制定の委員を務める。

1914年(大正03年)大日本武徳会から範士号を授与される。

1916年(大正05年)美田村顕教亡きあと、天道流15代宗家・美田村千代 (のち範士)を薙 刀師範に、美田村邦彦を剣道師範に招聘する。

1920年(大正09年)真貝忠篤が亡くなり、以後、修武館では富山圓師範と美田村邦彦師範の時代が長く続いた。

1922年(大正11年) 富山圓師範、仙台、台湾への赴任を終えて再び修武館に帰任。文道・太田北山、武道教頭・富山圓、 剣術・岡本七太郎、弓術・佐久間静人、剣術・成富赫治、槍術・藤井貞臣、體術・山本精蔵、薙刀・美田村顕教、 謡曲・谷市之進などが名を連ねている。

「現在の剣道の基礎をつくるにあたり尽力された大日本帝国剣道形制定委員および大日本武徳会役員」

根岸信五郎(範士)神道無念流東京府

辻真平  (範士)心形刀流佐賀県

富山圓  (範士)直心影流 台湾

真貝忠篤 (範士)田宮流東京府

柴江運八郎(範士)神道無念流長崎県

和田傳  (範士)新陰流熊本県

門奈正(教士)北辰一刀流・内藤高治(教士)北辰一刀流

高野佐三郎(教士)小野派一刀流・湊辺邦治(教士)山口流   

木村敷秀(教士)直心影流東京都・太田弥龍(教士)直心影流京都府・矢野勝治郎(教士)直心影流京都府・柴田衛守(教士)鞍馬流東京都・中山博道(教士)神道無念流東京都・田中厚(教士)北辰一刀流愛知県・小澤一郎 (教士)北辰一刀流茨城・星野仙蔵(教士)小野派一刀流埼玉県・小関教政(教士)無刀流山形県・上村信夫(教士)貫心流新潟県・二宮久(教士)新陰流山口県・川崎善三郎(教士)無外流高知県・佐々木正宜(教士)水府流鹿児島県・浅野一摩(教士)津田一伝流福岡県・高橋赳太郎(教士)無外流・津田一伝流兵庫県。

 

富山可誠(第二代鹿島神傳直心影流富山派・大日本武徳会教士)

明治19年六月生まれ。富山圓の長男

1940年(昭和15年)富山可誠が紀元二千六百年奉祝天覧武道大会に指定選士で選ばれている。父儀秀とともに富山圓につき影流を学ぶ(台湾武道専門学校)このとき息子の可誠先生は相当の腕前だった。西の富山可成、東の高野佐三郎と称されたが可成先生は早くに死去されたので文献にはほとんど記載(日本武道専門学校に記載のみ)が少ない。

圓先生はうちの可成は子供の剣道をすると(笑いながら)しかし其の時には可誠先生は師範代であった立ち合い事すらできないとお話があった。しかし早くしてなくなられた為歴史には残っていないがもう少しな長く生きておれば日本の剣道界も変わっていたかもしれない(素遊)

吉永儀秀(第三代鹿島神傳直心影流富山派)

鹿児島生誕幼少時より示現流の免許皆伝であった。台湾(台中武徳殿)に赴任されて来られた富山圓先生と出会い稽古をお願いした、しかし立ち合いで触れることもできなく幾度となく稽古をつけてもらうが結果は同じであったそうです。その後、圓先生より影流を学ぶ。

吉永法文素遊(第四代鹿島神傳直心影流富山派素遊会)

吉永法文素遊先生

大正11年4月8日鹿児島生まれ幼少より父より示現流を学ぶ

富山圓・可成先生につき影流を学ぶ。

1968年昭和43年4月 大東市体育協会2代目会長 初代大阪作刀会代表

教師・書道家・刀剣鑑定士(本阿弥免許)

先生は刀剣師の発展に尽力され南紀竜神太郎(貞行、貞文、貞茂)。奥出雲横田(小林貞法・貞永・貞照)。

1979年昭和54年直心影流素遊会を設立。

武道は綜合武道であり武士の精神教養である[剣の道は孤独との戦い己に打 

ち勝つことであり勝てばよいものではなく 心身練磨し礼節を尊び、信義を

重んじ誠を尽くすこと本物の武道家は人格的に尊敬されなければならない]

友宗明生慈恩(第五代鹿島神傳直心影流富山派素遊会)

1975年昭和50年 吉永法文より影流を学ぶ。

1979年昭和54年2月 免許皆伝・2代目大阪作刀会代表

武道家(その他居合道)・自香寺住職

寺脇利之穏遊(第六代鹿島神傳直心影流富山派素遊会)

1980年昭和55年 吉永法文より影流を学ぶ。

1989年平成元年2月 免許皆伝 3代目大阪作刀会代表

武道家(その他居合道、杖道、槍術等)・柔道整復師・整体師・理学士